ChatGPTを、現物を見ずに妄想してみる。出来栄えが的をどれだけ射ているか、それとも空振りか、おそらくはマーブルチョコレート。
現在、通称 “AI” と呼ばれるものは現状はただのツールで、シンギュラリティ後のいわゆる「知能」を持つようになった主体を “AI” と呼ぶことにする。この主に前段について見てみよう。
ChatGPT というツール
ChatGPTという大規模言語モデルのアルゴリズムの中身は理解できないが、最新データを食わせていないという点から、例えば将棋AIなどのディープラーニングとはデータの扱い方が異なっているように思えるし、ゲームのルールとは明らかに広さの異なる言語世界の記述は難しかろう。
しかし専門家が驚くくらいの出来なのだから、そこに工夫があるのだろう。
少し大胆に切ってみよう。
ChatGPTが得意な領域はヒトがする作業として価値が低いと一般化できるかもしれない。
ある場所に行きたいだけなら歩くより車で行った方が早いようなものだ。(そもそもこの比喩で有用性については充分に表現できているが。)
これで生成された文章がチューリング・テストにパスするならは、読み手の読解力を満たしているのだから、そもそも何の問題もないともいえる。
ただし、カラクリを知っている者が見れば「ヒトの知性」と「その外形的なシミュレーション」という別物だと知れる訳だが、判別するには “ChatGPTチェッカー君” の開発でも待つことになるだろう。
横道に逸れたが、ひとまず我々はChat GPTをツールとしてみてみよう(必死にでも涙目ででもいいから)
精度問題或いは世界の広大さ
アルゴリズムの形によって(将来的には近づいていくにしても)ChatGPTに不得手な使い方はあるし、そもそも世界を記述するにはあまりにも世界は広い。
世界は駒が40枚しかないのではなく、座標も361個どころではないのだ。この世界の広大さを記述するにはさすがに時が要るだろう。ヒトのオントロジーの獲得の方が遥かに安価だ。
テック全体の話だが、ついでにその中毒性
容易に想像できる少し先の未来は、他のテックの技術と相まって、人類がのめり込んで耽溺の海に沈んでしまうことだ。
大好きな大好きな大好きなオンラインゲームにいそいそとサインインするように、新しいテックにいとも易々と魅了され過ぎるのは分かり切っている。”利用する”という概念が変質して溶け切ってしまうほどに強烈だろう。
阿片にまみれて沈んだ、清朝末期の中国のように(中国の中毒、なんちて)
あらがうのは難しい。
そのほかに
「量から質を生み出す」グーグル先生が出した警告も、このテックが持つリスクを案ずるというよりも、競合しているのがおそらく検索エンジンだからだろう。
今、裁判で、検索エンジンのリコメンド機能が問題となっているが、これはテックにおいてはより見えにくく潜在化していく(構造化していく)方向なのだろうね。
まとめ
ChatGPTの登場による最も大きな恩恵は「ヒトの思考の値打ちとは何か」を考える契機になることだろう。
ヒトとツールの判別がつかなくなれば、そもそも胸を張って戴いていた「ヒトの思考」とは一体ナンボのものだったのかとなる。
少なくともヒトが愚鈍にまどろんでいる刹那、彼はたちまち本家ヒトの手に成る渾身の大部の小説と見分けがつかぬ文章を生成してしまうだろう。
ああそうか、そのような意味では、おしなべてヒトのシゴト量をアウトパフォームしていることになるね。
願わくばヒトの王者が一日でも長く輝きますように。
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