自由の検分或いは夏の隙間

ショートショート

「きつねの嫁入り」だ。それに鷹揚に対応すべく、雨傘をさして雨が止んだ日差しの中を歩いている。薄日になったり曇ったりしている。近頃導入したサングラスではない、重たい傘は心理的間抜けだが、この小さな自閉の陰(かげ)からは落ち着いてゆっくりと視線を外に向けられる。何せ只今雨は止んでいるのだから、曖昧に顔だけに影をまとえば良い。自閉から外の世界へ。酷暑の釜の底からまだ一週間の候、雨がちで湿気が酷い。そんな雨がちの植生の国土くんだりを何故歩くのか。我が事ながらその気が知れぬ。暑い。蒸す。その主観の中心で、俯いた自分が歩を進める。少し視線を上げる。道。道の遠く近く。見えないが飽和水蒸気。何故歩いているのか。生きていると自然に歩くか。大西洋とたしか名付けられた未知の海原。歩くリズムという諦念の慣性系が、汗ばむ不快さを少しづつ和らげる頃、真っ直ぐに続く道を不思議に見上げる。地平の空を見上げる。なんだこれは。これが世界か。遠さという空間。広さという自由の。世界はどこまでが広いという名前か。僕はこの道を歩いて良いか。この先に喜びは埋まっているか。足下から徐々に道を見る。辿っていくという時の仮定。遠く霞む最遠のパースの焦点が、遠くなのに突然近くなる。これが繋がるということか。そう。あらゆる断絶は実は繋がっている。脳味噌のグリア質の如くその媒質は、実はいつも空間を満たしている。灰色で透明なそれ。無いとも知れぬ在るもの。縁起でも空でもないかも知れない、脱非不透明人間以外に否定的なもの。自由のシナプスを通すもの。プスプス。この跳躍は掴めるものか。何処へ行くのか。何処かへ連れて行かれるか。盛夏に隙間がある。僕の視線は毛細管よろしく見えなくなるまで夏の本領らしく染み込んでいく。行く先は「遠く」以外未定みたい。

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