今回のオリンピックは様々なことが起こる。
全部は書き切れないので、書きたいことをほんのいくつかだけ。
カーリング(ロコ・ソラーレという女神)
カーリングは「氷上のチェス」と呼ばれるが、むしろ「氷上のゴルフ」とでも呼んでみたい。いや、みたくはないw。
他に良い表現があったら置き換えるw。
基礎体力は必要だろうが、緻密な戦術や、状況判断の力、コミュニケーション力の必要性は、日本人に適した競技かもしれない。
なんといっても、特等席だ。かぶりつきというやつだ。
会話も、表情もすべて正面かつアップで見られる。
こんなスポーツは珍しい。
もしも経験があったり、詳しく学んだりすれば、これほど近くで鑑賞して楽しめるスポーツはないだろうと思う。
選手のお化粧や身だしなみの大変さがしのばれるほどに。
ストーンを投げる。
ストーンを見る氷上の表情が大写しになる。
恋に落ちる。
これがイケナイ表現ならば。
真剣な集中した人の眼差しになぜか引き込まれてしまう、というところか。
同じことだが。
とにかく最高なのだ。これがバズらなくて何がバズるのか。
今、日本対中国戦だが、中間もぐもぐタイムでの会話に決定的な密度の差を見た。 展開もあったのだろうが、コミュニケーション力、なにより発話の自発性の高さが違うように映った。
スポーツは自由なのか
スポーツの語源には、「奇妙な振る舞い」という意味があるそうだ。
まちがっていたらすまん。
おそらく、人間の行き場のない衝動や突然噴出する情動の発露が、さまざまなスポーツの起源となったのだろうとしばし妄想する。
ところで、原初には「自由」な「遊び」だったはずのスポーツが、競技として確立していくにつれ、ますます規定や審査基準にがんじがらめにされていってはいないだろうか。
このことはいわしんだけではなく、少なくない数の人が感じているだろうと想像できる。
「競技」性を推し進めるゆえに、見る人にとっては息苦しくいびつになっていく。
個々の選手には非のあろうほずはない。
競技スポーツそのものが内にはらんでいる構造でありコンフリクトだ。
この運動はおそらく誰にも止められない。オリンピックや大きな大会では殊に、ビジネスや政治や組織の成員の利害が絡んでどこまでも転がっていく。
自由の発露のはずが不自由に取り込まれていく。
何の不自由かも様々ある。
競技の進化の方向の恣意性。
ルールの先鋭化。
採点基準の先鋭化。
競技運営の適切さや不備
競技そのものの不自由性。
ハーフパイプの平野歩夢は両足を固定した不自由な状態で、自由な大空に高く舞い上がった。(当たり前だがw)
そんな風に眺めることは本人にとっては不本意だろうか。
そのときの平野選手の首には、「何かに縛られずに自由に生きる」という意味が込められた手ぬぐいが巻かれていたそうだ。
それは「スポーツ」=「奇妙な振る舞い」として見事にかぶいてみせた、という正転なのだろうか。
これぞ傾奇(かぶき)だw
最後に会心の笑いを。
16年前、スノボクロスで、ゴール前で見事にやらかして金メダルを逃したリンゼイ・ジャコベリスは、今回は見事にリベンジを果たした。
なんと今回も懲りずにグラブトリックを入れたそうだ。さすがのアメリカ娘であるw。
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