言わばわたくしは、たくましい筋力をそなえた認識の玩具です。
ヴァレリー 『エミリー・テスト夫人の手紙』
人の本能は既にして壊れている、と言われる。
発達し高度化した大脳によって、複雑化した社会性によって、もはや思考と本能との区別がつかないように感じられる。
誰かを恋うるただなかにおいてすら、原初的な本能のようなものから程遠い印象を抱くことも多いのではないだろうか。
そうかと思えば、無批判な意識の強化によって「愛情」「恋愛」などという価値めいた言葉にコミットして疑わぬ風情でもある。
この、ねじれたような意識の不透明さは何事だろう。
恋に落ちる
自分は、その人の何に惹きつけられるのか。
その人の「強さ」に。
身につけられた習慣の強度に。
(同じことだが)信念の強度に。
(同じことだが)奉ずる規範の強さに。
そんなものに惹かれているのではないか、そう思っていた。
その強さを支える、こちらからは見えない理由、あるいは強さを支える熱のようなものが、当人の根源により近いものだというイメージだろうか。
そんなものが、自分とはまったく別の個体の中に独立して生きていることの不思議さ・・。
そんな存在をこの手に取ってみたいと思うこと、その過程に身体性の接触が含まれていく。
こんなものが今、ペンが走らせた恋愛観のようなものだ。
恋に溺れる
恋愛は強い触媒だ。
体と情動のすべてが自動的に波立ち始める。
しかし、それに負けないくらいの強い喜びは自分でつくれる。そういう他愛ない思いも持っていたりする。
そう、欲しいのはメディアではなく、コンテンツなのだから。
恋愛へと向かわせる動機とは、それでも自分の中にある弱さに溺れてみたいという身投げのような気持ちからだろうか。
誰か、というメディアの持つ幻想に翻弄されつつも、手に取って確かめてみたい、そのようなあらがいがたい甘美な暴挙。
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