読書と無関係な出力2

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小一時間で本を半ページくらいしか読み進められないで、思いついた何がしかをしばらく書く。

そんな訳のわからない冗漫な時間はしかし贅沢だ。


読書感想文の呪縛から逃れて
読書無関係文を
読書触媒自由文を
さあ展開しよう。

69 as 6

(余談)

イードーの「何でも」のエピソード。

学生時代、あるガジェットについて「何でも出来る」とパイセンが宣託したとき

”ならばここに直ぐ1億円出してみろ”と思ったことを思い出す。

「何でも」の条件の広さは通常ヒトの手には余る厳しさだし

その先輩も今はもう鬼籍に入っている。

「使い方の可能性の大きさ」
を表現したい意図は分かる。

その具体例が可能性のイメージを狭めるのが面映ゆいと感じるのも理解できる。

「全部」を適用する範囲によってその用法が傲慢に聞こえるというメンドクサイ性分語り。

(この先輩とのエピソードをただ記したかったのだ。)

75 as 7

人類が過去に得た知識全部と
これからの2日間に生み出される情報の量は、なんと同じくらいだという。

前者を「古典」と仮称し
後者を「ガラクタ」と呼べばw

歴史を仮に数千年に限ったとしても前者は後者の百万倍のオーダーの密度があることになる。

ただし後者にはガラクタやフェイクや罵詈雑言の他にも

ヒトのパラダイムを変える革新的なテックが含まれていて

現代の過剰な流動性の下ではそれをっ幅員にするのか核爆弾にするかをヒトは扱いかねるだろう。

(何しろ21世紀の今日で尚、ヒトはいまだ陣地争いに明け暮れている。)

78 as 8

マルクスの分析が、のちの資本家や政治家に参照され、キャピタリズムやマキャベリズムの遂行に資する様に働いたと言えれば面白いが、このような感想や予想の現実への自己犠牲の影響を脇に置けば、さしあたって

「将来は予想できない」

というある人の言葉が思い出される。

前段についてもう少し。

社会主義と資本主義とは、権威主義の剣を備えた同色の近代主義の範疇に違いないと自分なりには見えてしまうが

その力の必要悪の大きさの塩梅については未だに理解しきれていないという不明。

・・

後段の、社会という複雑系のダイナミズムの得体の知れなさも、恐ろしくも面白い。

139 as 9

農耕革命を「正統」的に理屈付ける為に一神教が共にノシてきたというのは、”神”はまさしくヒトが造ったことを意味する。

他ならぬヒトが一神教を造り、そのレトリックの下にヒト自身の優越を築く。そう捉えると一神教と進化論の対立は鮮やかだ。

畜産への倫理的疑問は子供の頃誰しもが抱くものだが、その自我が生まれる基盤にはその殺生がビルトインされているという皮肉。

134 as 10

進化とは変化で、魂の実在と両立しない。
なるほど。
だがまずは魂とはマテリアルに過ぎないとしても、それをヒトが充分に実感できるほどの実在感があることにまず感銘を覚える。

さすれば、”魂”の最小の単位とはどのようなものかという問いがまず点灯する。

“魂”が神聖かつ侵すべからざる存在であるかどうかはともかく、ヒトの大部分の意識はほぼ自動機械のようなアルゴリズムに消費されているに過ぎないというのは認めざるを得ない。

143 as 11

人の意識活動がマテリアルな化学や電磁気的反応に依るという理解は、それら高度な反応の種類や数や程度の複雑に彩られるという凄さに比べれば、解像度の粗い単純な認知としてしか出力されないことに唖然とする。

ヒトの意識の精度は、使われるマテリアルの複雑さにまるで届いていない。

それは現状の愚鈍さと、励起への要請と、可能性の大きさを示す。

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