149 as 12
例えばヒトに「心」があるか、と言ったとき、それは自己参照と自己改変ができる何らかの主体というイメージがまずは個人的にリーズナブルだが、コンピュータにそれをプログラムするとき直ちに必須となるピースが存在するかどうか。
それ以前に、「心」がマテリアルとその相互作用の他に実体を持たない、いわば意識の中で特別な優越を持たないワンノブゼムに過ぎないとしたらどうか。
特段のものでないものを大事に思うかそうでないかはまた別問題だが、”そう思いたい”と願うヒトの指向性もまたマテリアルの反応がもたらす進化の取り柄のひとつか。
160 as 13
チューリングテストをパスする人工のアルゴリズムが存在するかどうかの時代は、秋が一瞬で通り過ぎる刹那の如くの短さであったろう。
グレイン数の精度だけががものの値打ちを決められないならば、ではそれは何なのか。
しかし例えばエシカルの高さが認知の細やかさに少なくとも一定は依拠するように、量的な無機物の外形的なパッケージが大部分の人間を凌駕する力と価値を持つようになるか。
189 as 14
客観と共同幻想と主観。
2番目はサピエンスが他を制する力として機能し、やがてサピエンス内部での力の行使に使われた。
それは特定のそれぞれの権力集団の繁栄のテコとして、あるいは濫用による悲劇のテコとして使われた。
必要と必然と混沌のタペストリー。
210 as 15
釈迦は仏典を遺すことを禁じた。示すものと示されるもの。表現元と表現と読者の流れの媒質の変容と、その自由というあらゆる誤差。
せめていくばくかの本質の芯が陽炎の如く残ろうとも、その力をも権威が濫用するという道に変わりはない。
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