桜の花が散っても、ときおり散歩に出かけるようになった。
とはいっても、並木のある緑道まで歩いて1分ほど、そこを散策するだけなのだが。
こんなことがあった。
その石畳の並木道に、小さなベンチがふたつ、ならんでいる場所がある。
先にひとりの人が座っていて、私はもうひとつのベンチに座った。
するとすぐに、その人が腰を浮かし、席をずらして一言、
「こちらにお座りになりますか?」
なんとその人は、私が座ったベンチがほんの少しだけ木漏れ日が強かったのを気遣ってくれたのだ。なんの外連味もなく。
ひとつのベンチの幅は1メートル半ほどだから、ふたり座るとやや窮屈になり、しかも隣のベンチは空いているのに、だ。
こんな小さな出来事にも驚いてしまうのは、自分の心が知らず知らずのうちにどこか穢されてしまっている、ということか。
ほかならぬ自分自身の意識が、どこかいびつに変形しているために。
この場所もほんの半世紀前には、永田川(仮名)という小川が流れていて、水田と農家が点在するだけのごくごく細い道だった。
着物を着た女性が歩いている、そんな写真がある。
その時代も、すれちがう小道で人々が素朴な会釈を交わし合っていただろうか。
そして今、こんなに近所でも20日ほども散歩すれば、ささやかながらもちょっと心を動かされるようなことが起こるのか、と気付いた私が、今日も同じベンチに座っている。
コメント