意識は、使う言葉に影響されるという。
同じ言葉ばかり使っていたら、感覚も画一化するとかなんとか。
エスキモーには何十通りもの「雪」を表す言葉があり、熱帯地方には「暑い」を表す言葉が幾通りもあるという。
ヒトと言葉は、いわく分かち難い相棒だ。
流行する俗語もなんらかの存在する理由があるのかしらん。・・まあ、あるんだけれどね。
チョー
超(チョー)なのだから、そのあとに続く言葉をある意味無効化もしているし、なんなら薄めてもいる。
「チョー」と聞くと、なぜかこんなイメージが想起される。
皆が「チョー」と言いながら車のアクセルをベタ踏みしている図だ。街中いたる所でアクセルがベタ踏みされるのだ。
こんな街、怖くてうるさくて臭すぎるw。
これほどに(いわしんの脳内に)猛威を振るった「チョーウイルス」だが、近頃はもう沈静化したのだろうか。
ところで、はるかな前世のことは「超超超、前前前世」と言うのだろうか?
この表現で「超超超、いい感じ」なのだろうか。
ヤバい
「ヤバい、ヤバい」と連呼してそれしか言わない女優さんには思わず萎えるが、おそらく演出がそこまで届いていないという点ではよりホンネに近いかもしれない。
ただその率直なホンネがその1語だけならば、本当にヤバいw。
しかし、江戸時代からこの言葉はあるらしく、しかもまさにその方面の言葉だそうだ。もうなんだかわけが分からない。
ニュアンスが違うが、「エモい」は語源がうまく略されていて、語感も面白く、なかなか良い。
が、寿命が長いとは限らない。
マジで
ご存じ、「本気」と書いて「マジ」である。
正直、この言葉にいわしんは取り込まれて久しい。久しいが、あとの祭りだ。
唯一、好ましい用法がある。
彼女がたどたどしく「まじで?」というのは趣があろう(←あざとさにやられている)。
マジでチョーヤバい
取り上げた3つの言葉は、それでも出現してから数十年経ったすでに古色蒼然としたものだ。
とはいえこの3つのみを用いた「マジでチョーヤバい」は今も日常で成立している文なのだ。
この表現が不自然に感じない言語感覚は、まさしくマジでチョーヤバいのである。
自覚して遊ぶのは良い。
だが自分が流行の俗語の何によって汚損させられているかを見ておく。それが使うときの心得かもしれない。
だがそんなことを言っても、新語を生み出し続ける人たちの動きは止まることはない。
言葉が生まれた瞬間から「言葉の遊び」も同時に生まれ落ちたはずだし、最も身近な遊びだから。
たとえそれがただしゃべらされているだけだとしても、それに無自覚だとしても、何より楽しいのだから。
ここまで読んでくれてありがと。ヤバいくらいチョー感謝。マジでマジで。
・・このエントリのブッ飛び加減より、より滋味深く感謝。
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