事象と感情の分離、感情と行動の分離

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嫌なことがあった日も
君に会うと全部フッ飛んじゃうよ

『Automatic』

ユニークな友人が実行しているのが表題のことだ。これである一定の割合の人ならばすぐに中身について諒解されるだろう。すなわち、言わずもがなの最上もがである。

なので、以下蛇足ながらだらだらと述べる。まったりとね。

事象と感情の分離

一般的に「悪いこと」だとされている出来事に遭遇したとき、なぜ悪い気分にならなければいけないのだろう」その友人は言う。

その歯切れの良い物言いに、なるほどと思った。

ちょっと考えてみよう。

毒ヘビを見たり大型肉食獣を感知したとき、当時のヒトには恐怖の感情が起こっただろう。
この刷り込まれた反射を本能と呼んで良いのかは分からないが、即座に身構える反応は速いものだろう。

この機構はヒトが生き残ってきた上で必須だったにちがいない。
これを(動物式)と仮に呼ぼう。

一方、直接は生命の危機だというわけではないが、外部の事象によって気分を振らされる、例えば他者の言動や、比較的高次の精神活動においての感情の起伏もある。
これを(ヒト式)と呼んでみよう。

この模式的な分け方は正確ではないし、ふたつの反応にどのくらいの関連があるのかは分からない。だが、大脳の活動により近い(ヒト式)の反応の過程に工夫の余地があるのだろう。

(ヒト式)の事象→気分の移行には、(動物式)のそれと違って物理的な生命の危機といったものは少なく、「事象-反応」系のファンクションを吟味する余地があるということだろう。

ティーン頃の宇多田ヒカルが書いた「嫌なこと」とは事象ではなく、事象への判断がすでに反射的に含まれてしまっているのだと。

そこで友人の言う「悪い(と一般に思われている)事象」に「不機嫌、不快」を対応させる必要はないということなのだ。

また「いわゆる良いこと」があって気分が上がる時があるが、その良いコトが何なのかド忘れしてしまい、「あれ?どうして今上機嫌なんだっけ?」となり、なんだか上機嫌がしぼんでしまうことがたまにあるよね。

友人曰く「理由のある幸せは、その理由の消滅とともに消える」なるほど、実に念が入っていることだ。

この考えには弱点もあるかもしれない。
・事象からの物理的な防御力のカン離れ
・この機構の倫理的な懸念(つまりそれでいいのか?)などだ。
これらは検討されなければいけない。

それにしても、現代社会での高度の達成度に関わる個人の評価や、人間関係などでの軋轢に、個人の意識が十分にプロテクトされるに有効な装備になりうるだろう。

感情と行動の分離

そして、何かをGRITしたい時、行動の原動力を気分に求めない、言わば「非感情ドリブン」をしていく必要があるそうだ。これは、「気分」を行動のトリガーにしてはいけないということ。

有名なのは「2ミニッツスターター」(独学大全)のようにまず2分間だけやる、など。

もっと戦略的な技術としては、
村上春樹さんの、一日10枚丁度ずつ書く
森博嗣さんの、一日1万文字だけ書く
という、機械的な流れの中で価値を作っていく。

「機械的に」というところが初見の人にはやや意外に思われようが、この淡々とした流れを使うというのがいかにも密かな仕事術っぽい。

感情というもの

前段では殊に外界からの防御について、後段では主にGRITの観点からと、すこし趣が違うが、

事象ー感情ー行動

こう徐に並べてながめてみると、なんだかおもしろい。

それぞれの棒線のつなぎ目に潜む、「感情の常識」に僕らは縛られる。
前者。マイナスの出来事にはマイナスの感情を当てなければ。
後者。やる気を出そう。

まさか、そんなことは決してないとは。

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